美剱が
言語や台詞となる
コミュニケーション
声咲く
2018年10月3日 水曜日
私は、桜月流の美剱そのものが
言葉の代わりとなれるようにと
考えてきました。
『今事記』公演より
その手付(てつけ=振付)が
あたかも言葉を伝えているような
コミュニケーションを目指している
ということです。
戦いの構図や祈りの心
エネルギーの交錯や風情ある所作。
ある時には
自然界の世界のように見えたり
殺陣として演じる時には
敵対する者と守るべき者の姿に見えたり。
台詞や語り部の説明がなくとも
それらが見えてくるような
「剱の言葉」としてのコミュニケーション
という意味です。
第一師範である松木史雄は
脚本家でもありますが
剱の言葉(脚本)である手付にも
大きな才能を持っています。
2004年からの10年間は
美剱による無言劇のアート作品づくりに
主眼をおいてやってきました。
それを可能にさせたのは彼の
類稀なる力のおかげだったと思っています。
そして、それを具現化することに
全身全霊で尽くしたメンバーの全員力の
おかげだったと思っています。
『SAKUYA』公演より
『SAKUYA』『カラフル』
『剱〜TSURUGI〜』
『今事記』シリーズによる
無言劇アート作品を生み出した
新しい剱の可能性への手応えが
桜月流を次のステップへと向かわせました。
これらは世界展開の事業でもあったので
グローバルに戦えるという我々なりの
ささやかな自信がそうさせたのかもしれません。
私は儀式的祭祀の美剱へ
松木は演劇的殺陣の美剱へ
石綱は健康に根ざす美剱へ
昌志は幼児教育からの美剱へ
各々が次の駒を進める先頭に
立つことを決めました。
Communication(コミュニケーション)とは
意志の疎通ということ。
語源は「聖体拝領/ Communion」だと言います。
キリスト教に聖餐式という儀式がありますが
その時飲むワインは、イエス様の血。
その時食べる種入れぬパンは、イエス様の身体。
それを食すことで神と一体となるという儀式です。
私もキリスト教徒だった頃、何度も参列しました。
フランスのシャルトルを訪ねた時
たまたま聖餐式の日で
神父さまに繋がる長い列に加わり
私は儀式のパンを頂戴しました。
その小さなパンをメンバー皆で
分け合って食べたことを今でも覚えています。
神と共食することで
神と一体となる。
これがコミュニケーションの
語源ということなんですね!
忙しくて、
食がおろそかになる日もあるけれど
十五夜の月見団子や栗御飯、衣かづきは
聖なるお月さまの霊力が映し込まれたモノ。
謂れのある日の伝統食などは、
心がこもるし美味しいし、健康になるし、
本当にありがたいものです。
だから、そんな時は
幸せだし、味わうし、感謝するし、
副交感神経で深き呼吸とともに
頂戴している気がします。
つまり…
「食」というものに、
コミュニケーションの秘密
があるということなのでしょうか???
分け合う、ということ…かな。
分けあって
食べる=頂く=身体に取り込む
ということでしょうか。
だとすると…。
剱の手付には、
そこに込められた意味や思いがあるし。
物理的にも斬り結ぶべき「剱と剱」の
方向、量、角度、力感、重心などなど
理想の剱振りに存在する
共通項がたくさんあります。
それを分け合って
自身に取り込もうとすること。
それが美剱コミュニケーションの核だと
言えるのかもしれない。
思いやりとか、攻撃的な調和とか、
互いの中心を感じて引き合う引力とか。
そういうものを共食するということが
美剱という技芸がなしうる
コミュニケーションなのだとも言えそうです。
特に私は、桜月流の中でも
桜月流の真髄となる
『祭祀芸術/ササグ(PRAY)の美剱』を
先導する役割なので
生命力に満ちたよい気を
天から頂いて
それを分かち合い
純化して相手に向かい
超微細な振動数の交換を持って
剱の交流&交信=響振をする
そんなコミュニケーションが結べたら
言葉の代わりにさえなりえますね。
美剱の道は♪
国籍も言語も
ジェンダーも年齢も超えて
分かち合いたいな
「剱の言葉」としてのコミュニケーションを!
そんなことを考えつつ
海外VIPのお客さまへの
剱舞ご披露の現場へ
行って参ります!!